1903
東京市目黒に生まれる
目黒区白金小学校卒業
府立第四中学(現・戸山高等学校) 卒業
第三高等学校卒業
1927
京都大学工学部卒業。
朝鮮総督府の技手として赴任
1932
京都大学営繕課に移る
旧満州国国務院「大陸科学院本館」コンペ当選
大連駅舎設計に参画
1938
満州房産㈱に移る。技術課長に就任
1940
建築興業㈱常務取締役を兼任
1942
内藤建築事務所を開設
1953
社長に就任
1973
会長に就任
1985
死去
1934年竣工
『京都大学建築八十年のあゆみ』(1977年発行)より
1936年竣工
『京都大学建築八十年のあゆみ』(1977年発行)より
1936年竣工
『京都大学建築八十年のあゆみ』(1977年発行)より
1935年竣工
1935年竣工
2011年11月撮影
昭和49年4月1日入社式
描くものに責任を持つと共に、施主の金を使うので経済的、能率的に考え、定石をよく憶えてあやまりのないよう十年後にたくわえた創造力を発揮して欲しい。
01
昭和50年新年
第1回全体会議(1月14日)
着飾った花魁のような時代は終わったし許されない時代である。質実剛健で骨格のしっかりしたもの、そして大地に足をしっかりつけ、自信をもって仕事に向かって欲しい。
設計面において建築は人間と同様に寒い場所ではそれなりの衣服を(適切な建築部分、設備を)暑い場所では不要な衣服を脱ぐと云う具合に適材適所なる建物を創る等創意工夫をいたる処に出して欲しい。互いに各自意思のかよい合いを大事にして緊密なコンビネーションプレーで設計してもらいたい。一人一人の個人プレーでなく、常に自己反省や回顧がなされ、互いの技量をよく知った上での百名のコンビネーションプレーが必要なのである。
02
昭和55年入社式
諸君はこれから一点・一線を大事にして建築家としての最高峰を目指し我社と云う一つの屋根で勉強し、たゆまぬ努力をしてほしい。自己の目的・方針をしっかり立てて地面を一歩一歩ふみしてめて登ってゆくように、きびしい世情に対処するにはガンコな程強い精神力が必要で生き残る要素である。省エネ時代にかかわらず建物を含めて物を大事に扱うよう心掛けること。
03
昭和60年1月新春
毎年年の初めに思うのですが、建築家とはどんなものかといつも考えます。つまり人のお金でその人に信頼を受けて向こうの希望するものを建てる仕事です。従って誠心誠意やらないと建築のコンサルタントとしての商売はつとまりません。殊に我々の仕事は多くの税金を使ってやるものです。だから少しでも私心があってはダメです。もう一つは建物を好きだ。いいものを工夫して作ってやろう。一種の執念だ。建物に愛情をもって一条の線を引き一文字を書き込んでもらいたい。この二つは当然だ。
そしてもう一つ考えることは、昭和23年頃、今の京大教養学部の東側の部屋で再出発した時は三人だったが、人間が増えて多くなるといつも私達の責任が重たくなる。諸君には先のルーツでいかに税金を有効にムダなくお金を大事に使っていくかに専念し、努力してもらうが、それをサポートしてゆく責任を感じそして責任を果たし、尽くします。終り。
04
内藤建築事務所は1942(昭和17)年に内藤資忠によって開設された。
1945(昭和20)年から2年間休業した後、1947(昭和22)年に京都で内藤建築事務所を再開する。
1950(昭和25)年に鉄筋コンクリートアーチ型スラブ( 実用新案登録)を開発、1954(昭和29)年には改良アーチ型スラブ(実用新案登録)と構築法(特許登録)を開発し、「内藤式曲面版工法」を完成した。内藤式曲面版工法はその後、改良が加えられ、1972(昭和47)年に内藤式SDR工法として発展した。
戦後の教育改革にともない、教育施設建設は急務であった。建設費の軽減がはかれるこの工法が、経済的な基盤の弱い中小自治体で採用され、全国の教育施設や公共施設の建設に貢献するとともに、事務所の基礎が確立された。
1955(昭和30)年ころから英米に技術員を派遣、病院建築を研究し、知識を広めた企画設計により多くの自治体から注文をいただき、「病院の内藤」と称されるようになる。全国の数多くの実績により培ってきたノウハウを活かしつつ、複雑化かつ高度化していく施設環境に対応するため、当社は新たな高度な技術と幅広い知識を吸収するため、日々調査・研究を行っている。
次代の公共施設や住宅、産業施設の整備をサポートし、人びとのさらなる幸福や福祉の増進、地域社会の発展などに貢献し、そして建築に課せられた新たな使命を全うできるよう、各種の有資格者がスペシャリストとなり、バランスのとれた施設づくりを提案しつづける。
1965年の航空写真
診療棟3期(1961年設計、1963年竣工)
外科系総合病棟(1968年設計、1970年竣工)
「日本の学校建築68」全国優良施設校
創設者内藤資忠は、第二次大戦後の復興期に機能を優先したシンプルで安価なシャーレ構造の床を生み出した、アーチスラブ構築法(特許)を開発しました。
建設材料が思う様に手に入らない状況のなかで、安全で経済的なこの構築法は、全国の学校や病院など多くの建築に使用され、当社の全国展開への原動力となりました。
時代にマッチした真に良い建築物を設計することを常にもとめる精神と信念をこめ社章のデザインとしています。